中川一政

 
 昭和初期、小杉放庵がよく延楽に逗留され南画を描いたり、黒部峡谷に入り歌を詠んでいます。その自由闊達な振る舞いは、放庵紙と呼ばれる半すきの和紙に描かれた作品から窺い知る事が出来ます。
 中川一政は新潟県赤倉の放庵のアトリエをよく訪ねています。その縁によりたびたび延楽を訪れることになります。延楽創業者、濱田竹次郎は両氏と親交を深め、頑固な明治気質はお互いの信頼関係となっていきます。中川先生の日記には延楽での滞在の様子が描かれています。延楽で描かれたスケッチも残っています。
 その縁により平成5年8月に地元セレネ美術館にて展覧会が開かれ、丁度その年が中川先生の生誕百年という記念すべき年で、多くの中川ファンがその作品に魅了しました。

薔薇 1968年

 中川一政(1893-1991)は、明治から昭和にかけ、白樺派によりゴッホやセザンヌが始めて日本に紹介された頃、絵を志しました。1914年(21歳)たまたま手にした絵の具で初めて描いた絵が、岸田劉生に認められ、その後草土社の活動に参加。春陽会設立にも加わります。しかしその画風は特定の流派によらず時流に流されない独自の生命感あふれるものでした。
駒ケ岳 1973年
 1949年(56歳)神奈川真鶴町にアトリエを構え、新しい境地を開き、その後97歳で亡くなるまで懐深い自然を対象として絵に挑みつづけます。「腹の底からうごめく」創作意欲を原点に、福浦、駒ヶ岳、薔薇、向日葵などの油彩を中心として、岩彩、陶芸、墨画、書など数多くの作品を生み出します。それらは多岐にわたりながらも、すべてに一貫して中川流としかいえない独特の命が宿っているといわれています。

 1975年(82歳)文化功労者として文化勲章を受賞。白樺派の時代からゴッホやセザンヌの画家としてのあり方に共感し、独自に自らの根拠を東洋的精神に求め、西洋の真似ではない自己を求める創作を探求し続けました。そして自然を師匠として挑みつづけたその画業は1991年(97歳11ヶ月)で亡くなる前年まで行われ、70年余に及ぶ壮大なものでした。

ムーヴマンの事 1987年 唐津木偶陶板 1983年

 以前、パリのカルナバレー美術館で「中川一政、奥村土牛展」が開催された。その時の会場の様子をビデオを拝見させていただいた。フランス人が中川先生の作品を食い入るように見ていたのが印象的だった。
 高齢で制作されたにもかかわらず先生の作品から伝わってくるエネルギーに圧倒されてしまう。