宇奈月の温泉開発

(平成11年第7回特別展)より

 

はじめに

 黒部奥山には、県内随一の高温で湯量が豊富な温泉が多く湧いている。これらが発見されたのは、主に江戸時代であった。しかし当時、越中を治めていた加賀藩では奥山一帯を御縮山として立ち入りを禁止にしたため、温泉地として人々に利用されるようになったのは一部を除いて比較的新しい。ことに宇奈月温泉は、黒部川の電源開発に伴って誕生したのは、大正時代の末期であった。

 この間、黒部奥山の宿命とも言える洪水と土石流災害などで廃湯になった温泉もあり、幾多の変遷を経て今日、多くの観光客を迎えて「黒部八湯」が賑わっている。


国境警備と黒部奥山の温泉

 左岸の西鐘釣温泉

 黒部奥山の地形はきわめて峻険ではあるが、越後,信濃、飛騨の三国と国境を接しており、他国からの侵入、そして他国へ密出国できるルートもあった。江戸時代には、加賀藩は、黒部奥山への立ち入りを禁じ,下草、枯れ枝といえども、一切の採取を差し止め、黒部奥山へは国境警備、森林保全のための奥山廻を巡回させた。奥山廻たちはその巡回区域が広範囲になるため、黒部奥山を上奥山と下奥山に分け、それぞれを隔年に巡回していた。上奥山と下奥山の境界は一応、後立山(鹿島槍ヶ岳)となっていたが、立山から愛本橋までの間は川越が難しいので、黒部川の右岸を「東縁」、左岸を「西縁」として分け、東縁は下奥山の地内とし、西縁は上奥山につけた。

 黒部奥山の温泉のうち、最初に営業が許されたのは黒部川の西縁にある西鐘釣温泉である。西縁は越後や信濃国境から離れており、国境警備の面では特に神経を尖らす必要も無く,奥山廻の巡回コースから遥に外れていた。西鐘釣温泉は現在鐘釣温泉として営業しているが、ことさら「西」を冠したのは、国境から遠く、さらに川越の困難な西側にあることを印象づけるようなものだったようである。

 鐘釣に温泉があることは早くからわかっていたと考えられる。慶安元年(1648)、黒部奥山の巡見を命ぜられた芦峅寺村の十三郎は黒部の奥「つりがね」から帰ったと藩に報告しており、享保11年(1726)の内山村忠左衛門、音沢村小左衛門の書状には、「かねつり山」周辺には豊かな森林があることが記されている。

 そして、宝暦11年(1761)から黒部奥山での大掛かりな材木の切り出し、川下げがはじまった。天明元年(1781)、黒部奥山の事情に疎い藩の産物方が他国の杣人を入山させネズコ材を伐り出すという計画を立てた。これに対し新川奉行は、東縁への他国の杣人の入山は国境地帯の秘密が守れなくなると反対し、結局沙汰やみになった。そのかわり他国の杣人たちには片貝谷から西縁のサンナビキ山への入山ルートは開けていた。片貝谷の島尻村や東城村には山に入り、背負い稼ぎをするもの達がいた。できあがったネズコ版は片貝谷から背負いで運び出されたが、出水のため予定通り作業はすすまなかった。

 他国の杣人にまで入山を許したわけだから、加賀藩は文政元年(1818)に新川郡の者達が西鐘釣温泉の開湯を願い出ると、これを拒むことができなかった。出願者は上条組の栃山村孫右衛門、栃尾七口新村作右衛門、上小泉村宗右衛門、加積組の高柳村平助、大浦村助七朗であって、これらはいずれも滑川町近在の者達である。滑川町は明和2年(1775)から、黒部奥山の木材の切り出しにかかわった河瀬屋又四郎がおり、出願とは何らかのかかわりが合ったと見られる。孫右衛門らは、「文政元年にこの湯に入ったところ、腹の痛みをはじめ体のいろいろ痛いところが、他の湯では治らないのに、僅かの日数で治った。不思議な薬効のあるこの湯を人々のために開きたい。」と述べ、5ヵ年の間は毎年銀5枚ずつ運上銀を上納することで開湯を許された。営業は文政2年(1819)からはじまった。「三州測量図籍」には、文政3年片貝川筋の平沢村から西鐘釣に新しい道筋が作られたと記されている。温泉場に行くには片貝谷の西崖に沿って入り、木地谷を過ぎたところから日又谷(東又谷)の北頭に沿って遡り、サンナビキ山を越えるものであった。

 この温泉が営業できたのは5月から9月までの5ヶ月間だけであった。黒部川の流れに沿って遡ることはできず、2,000m近いサンナビキ山を越え、平沢村からでも9里歩かねばならなかった。そのため湯治に訪れる者の数は多くなかった。温泉場の普請も手に合わなくなり5ヵ年の年月を過ぎた文政7年(1824)には閉湯となった。