(2840m)

(ハクサンイチゲと黒部五郎岳)撮影:黒江彰之

51.黒部五郎岳(2840米)

黒部五郎は人名ではない。山中の岩場のことをゴーロという。五郎はゴーロの宛字で、それが黒部側の源流近くにあるから、黒部のゴーロ、即ち黒部五郎岳となったのである。北アルプスには、ほかに野口五郎岳がある。二つのゴーロの山を区別するため、黒部と野口を上に冠したのである。

 ある年の夏の夕方、私は三又蓮華の方から雨に濡れて双六小屋に辿りついた。そこで図らずも中村清太郎画伯にお会いした。この温顔童心の山の大先輩は、もう半月も前からこの山小屋に来て、小屋番と狭い部屋に同居しながら、絵を描いておられたのであった。翌日一日雨が降り通したのを幸いに、私は中村さんと語り過ごした。中村さんは黒部五郎のカールが描きたくて、ここからわざわざ雲ノ平まで写生に通っているとのお話だった。

 もしそれぞれの人に、こころの山があるとしたら、中村清太郎さんのそれは黒部五郎岳に違いない。画伯は中学生の頃すでに白馬の頂上から、笠ヶ岳に似たこの山を遠望して非常に惹かれたという。その後上高地で嘉門次老からそれが黒部五郎岳という山だと教えられて、心がおどった。その願いが叶って登頂されたのは、明治43年(1910年)、三枝威之介氏と二人で、2人で、3人の人夫を連れてて行かれた。もちろんまだ道もなく、人気もない、凄いほどの荒ら山だった。黒部五郎岳が世に紹介されたのは、この時の登山記によってである。

 それまでは殆んど知られたいなかったこの山の頂上に、中村さんが立たれた時、思いがけずそこに柱状の自然石がニつあって、その一つに薄れた墨で「中之俣白山神社」と書かれてあった。この荒ら山にも祭神が祀られ、参拝者の登ったことがあったのである。中之俣とは双六谷のことで、飛騨の金木戸の方から登路が採られたものと思われる。この山が一名中之俣岳と呼ばれるのも、その方面の名付けであろう。しかし現在では一般に黒部五郎の方が通用しているのは、中村さんの功である。

 中村さんがいかに黒部五郎ビイキあるか、その登山記の一節を引こう。「連嶺中の山は往々にして高さは高いながら、比隣の峰との関係上、境域が曖昧であって、嶄然(ざんぜん)頭を抜くことができず、徒に大連嶺を形作るための惨めな犠牲になってしまって、1個の山としては総てが貧しく、一言にいえば個性を失った態があるのに比べて、わが黒部五郎岳は、連嶺中に位しながら、連嶺の約束にも囚われず、立派に自らの個性を発揮した天才の俤が有る。自分はこの山が実に好きで耐らないのである。」

 中村さんは「わが黒部五郎岳」と呼ばれる。初心を失わず、今なお老躯をひっさげて山小屋に篭り、愛する山の写生に専念される。貴い気持ちではないか。

 私も黒部五郎は大好きな山である。これほど独自の個性を持った山も稀である。雲ノ平から見た姿が中でも立派で、中村さんの表現を借りれば「特異な円錐がどっしりと高原を圧し頂上のカールは大口を開けて、雲の白歯を光らせてゐる。」

 私がこの山へ登ったのは、まだ今日のように登山が盛んにならない頃である。上ノ岳の方から匐松(はいまつ)の間を通って、黒部五郎岳の肩に着くと、眼の下が、巨人の手でえぐり取ったように、大きく落ち込んでいる。三方を高い壁に囲まれて、いかにも圏谷といった感じである。その肩から私は頂上へ上った。昔の縦走路はこの頂上を経てカールの上辺についていたが、現在は肩から圏谷のそこへ下る道ができたので、頂上までわざわざ行ってみる人は少なくなったようである。しかし私は愛する山の頂上に触れずに過ぎることはできない。霧にために何も見えなかったが、ガラガラした石を踏んで頂上に立ち、満足して肩へ引返した。

 肩から圏谷のそこへ急斜面を下る道には、真夏でもまだ若干の雪が残っている。底から見上げたカールは実に立派である。三方は岩尾根に包まれて、青天井の大伽藍の中に入ったようである。すばらしい景色はどこでもあるが、ここは他に類例のないすばらしさである。圏谷の底という感じをこれほど強烈に与える場所は他にない。

 中村清太郎さんは黒部五郎岳を不遇の天才にたとえられた。確かに、世にもてはやされている北アルプスの他の山々に比べて、その独自性において少しも遜色のないこの見事な山が、多くの人に見落とされている。しかしそれでいい。この強烈な個性が世に見とめられるまでには、まだ年月を必要としよう。黒部五郎岳がTo the happy few の山であることは、ますます私には好ましい。
                      新潮文庫:深田久弥著「日本百名山」より

北ノ俣岳からの縦走路は山頂西の肩で二手に分かれる

HKの番組「日本百名山」で北アルプスに魅せられた方が随分多いと思います。
そこであえて深田久弥氏の文章をそのまま引用させていただきました。

新潮文庫:深田久弥著『日本百名山』の注文はこちらまで

Web書店