
(3,015m)
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| 深田久弥・日本百名山 /49.立山(1,015米)より 立山は、わが国で最も早く開かれた山の一つである。縁起によれば、大宝元年(701年)佐伯有若が越中の国司として在任中、その子有頼が白鷹を追うて立山の奥深く入り、弥陀三尊の姿に接して随喜渇仰し、慈興と号して立山大権現を建立したという。 その縁起はともかく、国司『三代実録』にも「清和天皇清和天皇貞観5年(863年)5月甲寅正五位上下なる雄山神に正五位上を授けられ」たという記録がある。雄山神社とは立山のことである。『万葉集』に詠まれた立山はおそらく剣岳であろうということを、私は剣岳の項で述べたが、その歌の中の「皇神(すめがみ)の主宰(うしは)き坐(いま)す」というのは雄山神社と見ていいだろう。昔は立山も剣も一様に立山と称されていたに違いない。 越中の平野から望むと、立山は特にピラミッドにそびえた峰でもなければ、左右に際立った稜線をおろした姿でもなく、つまり一個の独立した山というより、波涛のように連なった山といった感じである。殊に富山あたりからでは、その前方に大日岳が大きく立ちはだかっていて、立山はその裏に頭を出しているだけなので、山に詳しい人でなければ、立山を的確に指摘することは出来まい。 そのような立山が古くから栄えたのは、立山権現のおかげだろう。明治維新の神仏分離までは、山麓の岩峅寺には立山寺があり芦峅寺には中宮寺があって、両寺とも多数の坊を有していた。立山権現の奉祀者はこの僧侶たちで、各坊は殆ど日本中に分担して檀家を持ち、毎年檀家廻りをして立山のお札を配り登拝を勧誘した。おそらくこれが越中の売薬行商のもとをなしたものだろう。 立山まいりの白衣姿は全国から集まった。立山権現の功徳もさることながら、この山が非常に変化に富んでいて、登山の楽しみの多いことも魅力の一つであっただろう。芦峅から頂上までの旧道には、昔の繁栄を忍ばせるような伝説や古跡が至る所に残っている。 まず材木坂がある。多角形の柱状節理を持った安山岩が、材木のようなさまで縦横に横たわっている。昔女人堂を建てようとして材木をここまで運んでおいたところ、ある尼さんが来てそれを跨いだため、一夜のうちに材木が全部石に化したと伝えられる。 それから広潤な弥陀ヶ原にかかると、左手に称名滝が落ちている。四段になって断崖に懸かり、日本有数の見事な滝である。弥陀ヶ原は美しい山頂の大高原で、池塘が散在し、高山植物が咲き詰め、俗界から上ってきた人々はここで天上にある思いをする。 それから、昔の修験者が錬行したという獅子ヶ鼻を通りぬけると、鏡石という直径3mもあるやや扁平な大石がある。開基の有頼を慕って乳母がそこまで登ったが、それ以上進めず、せめての思いに懐の鏡を投げたところ、それが石になったのだという。近くに姥石というのもある。 しかし立山で最も人の目を驚かすのは地獄谷であろう。谷一面灰白色に焼けただれ、あちこち音を立てて蒸気を噴き上げいる凄惨な光景で、昔の人がこの世の灼熱地獄と見たものも肯ずける。罪障の深い物が死後にこの地獄に堕ちたという話が『今昔物語』に出ているし、またこの地獄に行けば死に別れた父母や妻子に会えるという話も謡曲『善知鳥(うとう)』の中に残っている。 地獄谷から登ったところに三繰ヶ池と呼ぶ紺碧の水をたたえて美しい湖がある。もちろん伝説なしには済まない。ある僧が人の留めるのもきかずこの池で泳いだ。最初は懐剣を口にくわえていたので無事だったが、池を見くびってそれ無しで泳いだところ、一巡り、二巡り、三巡り目に、池の中心深く沈んだままついには現れなった。三繰ヶ池という名はそこから出たという。やがて私達は室堂に着く。この建物は元禄8年(1965年)金沢藩主の造営というから、現存の日本最古の山小屋だろう。 こういうかずかずの古い由緒を持つ立山も、現在では一変して近代的な観光地になりつつある。ケーブルカーが通じ、当たらし自動道が開かれ、旅舎があちこちに建って、もはや人々は労せずして都会の服装のまま、高山の気に接しられるようになった。聞くところによれば、近くその山腹にトンネルが穿(うが)たれて、黒部の谷への登山の対象としての立山も消え、一途に繁華な山上遊園地化に進んでいるふうにみえる。 立山は、私がその頂を一番数多く踏んだ山の一つである。名かでも頂上の雄山神社の社務所に泊めて貰って、早暁、日の出を拝したときの印象は忘れられない。四方の山々が雲海の上に眼ざめるように浮かび上がってくるのを眺めながら、やはり立山は天下の名峰であることを疑わなかった。 |
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NHKの番組「日本百名山」で北アルプスに魅せられた方が随分多いと思います。
そこであえて深田久弥氏の文章をそのまま引用させていただきました。
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