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(2,998m)

(御前小舎 支配人 豊田嘉秀撮影)
| 北アルプスの南の重鎮を穂高とすれば、北の俊英は剣岳であろう。層々たる岩に鎧(よろ)われて、その豪宕(ごうとう)、峻烈、高邁(こうまい)の風格は、この両巨峰に相通じるものがある。大学山岳部が有能な後継者を育てるための夏季合宿、精鋭を誇るクライマーのクラブが困難なルートを求めて氷雪に挑む道場を、大ていはこの剣か穂高に選ぶのも故あるかなである。 『万葉集』に載っている大伴家持の「立山の賦並びに短歌」に讃えられている立山は、今の立山ではなく、剣であったろうという見解を私は持っている。太刀(剣)を立ち連ねたようなさまであるから「たちやま」と名づけられた。家持の歌に出てくる「可多加比河(片貝川)の清き瀬に・・・・・」とか、その歌に和して大伴池主の作った歌の中の厳(こご)しかも岩の神(かむ)さび・・・・・」とかいう描写は、剣以外には考えられない。 まことに剣岳は、そんな昔から、それを仰ぐ人々の心を高揚する山である。なによりその風采の豪毅(ごうき)にして風爽たる点である。日本アルプスの高峰にはそれぞれの風格があるけれど、一つの尖端を頂点として胸の透くようなスッキリした金字塔を作っているのは、この剣岳と甲斐駒ヶ岳ぐらいであろう。 全く剣岳は太刀の鋭さと靭さとを持っている。その鋼鉄のような岩ぶすまは、激しい、険しいせり上がりをもって、雪を寄せつけない。四方の山山が白く装われても、剣だけは黒々とした骨稜を現している。その鉄(くろがね)の砦と急峻な雪谷に守られて、永らく登頂不可能の峰とされていた。弘法大師が草鞋千足を費やしても登り得なかったという伝説はさておき、日本アルプスの山々が登り尽くされる最後までこの峰は残った。 その剣岳の神秘の開かれる日がきた。明治40年(1907年)7月30日、陸地測量部の一行によって、ついにその登頂は踏まれた。ところが、人跡未踏と思われていたその絶頂に初めて立ったのは彼等ではなかった。彼等より以前にすでに登った者があった。測量部一行は頂上で槍の穂と錫丈の頭を発見したのである。 槍の長さは約一尺、修行者が頂上で修法する時に用いた宗教用の剣であった。錫丈の頭は、長さ8寸1分、厚さ3分、これは極めて古いもので、シナの竜門洞窟仏像の錫丈と同じものと思われ、唐時代の作であろうと学者によって鑑定された。槍の穂も錫丈の頭も多年の風雪に曝されて、少し間隔をおいて遺されていた。前者はさほど深錆とは思えないが、後者は非常に綺麗な緑青色を呈していた。 古来登山者絶無と見なされていたこの峻険な山に、誰か勇猛果敢な坊さんが登っていたのである。それはいつの頃で、どのコースを取ったのであろうか。分からない。槍の穂と錫丈の頭は、同一人物の持ちであったのだろうか。分からない。そしてまたこれらの品は、記念のため頂上に遺されて行ったのか、或いは登攀(とはん)者が天候の異変にあって倒れ、所持品だけが残ったのか。分からない。とにかく不退転の勇気と鉄の意志を持った修行僧が、激しい信仰の念にかられて、この頂上に達した事だけは歴然とした事実である。 この発見から2年後に、純粋な登山を目的とする4人のパーティによって登頂されたが、それを案内したのは、前の測量隊に同伴した宇治長次郎であった。そしてこの時一行の登路に採った雪渓に長次郎谷という名が与えられた。 わが国近代登山黎明期の越中の名ガイドと呼ばれた佐伯平蔵は、やはり剣岳東面の雪渓に平蔵の名を残した。そして長次郎谷と平蔵谷とを分かつ岩稜は、やはり名ガイドの一人の名を採って、源次郎尾根と呼ばれている。 どこから見ても断崖と岩壁に鎧われていて、どこから登り得るか見当のつけようさえなかった剣岳でも、現在ではあらゆるコースが採られ、若い勇敢なクライマー達は困難な岩壁ルートを求めている。そして、大窓、小窓、三ノ窓、八ツ峰などの古風な名前と共に、ニードル、チンネなどという西洋風な名前も混って、万葉集の太刀山は、中世修験者の剣岳は、近代的なクライミングの試練場となっている。 おそらく剣岳の一番みごとな景観は、仙人池あたりから望んだものであろう。眼前に、岩と雪の交錯したダイナッミクな光景が迫ってくる。雄々しい岩峰と、その間隙に光る純白の雪。これほどアルプス的な力強い構図は他に類がない。その男性的な眺めに緊張した眼を下に移すと、そこにはメルヘン的な原がやわらかに拡がって、そこの池沼に岩と雪の剣岳が逆さに映っている。 |
新潮文庫:深田久弥著「日本百名山」より
(奥大日岳より剱岳を望む)
注:ツルギの漢字表記は、現在剱という字を使っています。
NHKの番組「日本百名山」で北アルプスに魅せられた方が随分多いと思います。
そこであえて深田久弥氏の文章をそのまま引用させていただきました。
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