(2,926m)


(五色が原・北薬師・薬師岳と続く)
撮影:尼崎市・武田壽夫



薬師岳(2922米)

薬師岳は、白馬や槍のような流行の山ではないが、その重量感のあるドッシリとした山容は、北アルプス中随一である。ただのっそりと大きいだけではない。厳とした気品もそなえている。

 立山の弥陀ヶ原まで上ってきて、まず眼を惹くのはこの薬師だろう。南北に長い山の背を、弥陀ヶ原から縦に望むことになるので、山の形が引緊って、堂々とした貫禄のある山にみえる。そのボリュームの大きさを満喫するには、雲ノ平から望めばいい。ここからはその長大な尾根を、値打ち通り横から眺めることになる。全くあきれるくらい巨大な壁が眼路の正面扼している。

 私が初めて薬師岳へ向かったのは、私が大学1年生、連れは一高生の熊谷太三郎君、二人でテントをかついで出かけた。熊谷君は現在熊谷組の社長である。当時は立山行きの電車は千垣までしか通じていなかった。千垣で1泊して、そこから和田川沿って登ること七里、もう飛騨境に近い高原に有峰と呼ぶ村があった。昔はここが薬師岳の登山口であった。しかし私が行った時にはすでに廃村になっていた。村人は水力電気会社に祖先以来の地を売って、金をふところに山を下った後で、軒が破れ柱の傾いた廃屋が点々としていた。草むらの中に崩れた墓のな並んでいるのも哀れであった。

 この有峰の高原から眺めた薬師岳の姿は、今も記憶に残っている。昔有峰の人は、お山は日に五たび色が変わる、と言ったそうだが、夕方、頂上近くの残雪が赤く映えて、下の方から紫色に暮れていく美しさは、何とも言いようがなかった。八月下旬で、あたりの草原には虫が無間断に鳴いていた。人里を遠く離れたこの山村の孤村もついに滅びかけている、そして平和だった村人が朝夕拝した厳かな美しい山だけが不壊(ふえ)の姿で残っている、そういう感慨が、まだ若かった私の鑑賞を揺さぶった。

 有り峰に一泊した私たち二人は、翌日太郎兵衛平に登る途中で道に迷い、おまけに豪雨に襲われ、薬師登山を断念して、真川を沢筋について下った。この沢には悪いところがあって、常願寺川へ出るまでに2日間かかった。思いでの多い山旅であった。それから30年後有峰ダムの建設に熊谷組が従事することになって、熊谷太三郎君が現地を見に行き、曽遊を思い出して感慨無量だと便りをくれた。さもあろう。

 その後、私は薬師だけ頂上に二度立った。一度は立山温泉から五色が原を経て、尾根伝いに行った。越中沢山を越えて、薬師の稜線に取りかかってから頂上までが、実に長かった。この厖大な山は、行けども行けども、頂上はなおその先にあった。やっと達したが、それは薬師北峰と呼ばれるもので、本峰までそれからまた大きな岩がゴロゴロした長い道のりを行かねばならなかった。

 本峰の絶頂には祠があって、その前に献納の宝剣のさびて折れたのがたくさん散乱していた。昔、有峰が登山口であった頃、登拝の人々はそれぞれ鉄で作った宝剣を携えて、それを頂上の祠に奉納するのが習慣であったらしい。その名残である。私はその中から形のよい剣の鉄片を選んで持て帰り、今もこの原稿を書いている机の上で、文鎮の用に使っている。

 有峰が滅びてから、薬師岳を単独に登る人は少なくなり、大てい立山方面から槍ヶ岳へ縦走の途中、その頂上を通過するようになった。ところが近年有峰ダムが竣工して、再び有峰口からの登山が盛んになってきた。もう昔の有峰は水底深く没してしまったが、交通が便になったので、ここから手軽に登れるようになった。

 私の2度目の登山はそのダムからであった。朝、汽車で富山に着いて、その夕方にはもう太郎兵衛平小屋で一杯やっていたのだから、隔世の感があった。小屋から薬師岳への道は、広々した高原をいったん鞍部まで下って、そこから森林帯を登って行くと、丈の低いオオシラビソと小さな池の布置のよろしい、美しい小庭園のような原に出る。

 それから先は白い砂礫のザクザクした尾根で、右手には黒部の谷を距てて雲の平の大きな台地を望み、左手には有峰のダム湖が覗かれる。稜線と言うよりは斜面と言いたいくらいの幅に広い尾根であるから、もし吹雪に吹かれて視界を失うと、かつての愛知大学の大量遭難のようなことも起こるのである。頂上に近づくと、右手に大きなカールが眼下に口をあけていて、その内壁の縞が美しい。もう昔の祠は無くなり、宝剣の破片も片付けられて、新しい小さな祠が岩の間に祀(まつ)られていた。
                     新潮文庫:深田久弥著「日本百名山」より


(富山側からの薬師岳・向側は圏谷群)


(山梨大学山岳部OB宮澤和利撮影)


NHKの番組「日本百名山」で北アルプスに魅せられた方が随分多いと思います。
そこであえて深田久弥氏の文章をそのまま引用させていただきました。

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