黒部通信VOL.4

満水の宇奈月ダム湖
(2000/04/07晴れ)

 黒部川の扇状地は、昔から黒部48ケ瀬といわれ、川の流れは自由に奔走し、洪水ごとに氾濫、移動を繰り返し、数多くの脈流を形成してきた。
 古文書によれば、黒部川主流は元禄年間以前は扇頂である愛本から墓ノ木を通り、現在の金山から古黒部(入善町)を流れ、海に出ていたと記されている。つまり洪水の度に、河口が西へと(黒部市)移ってきたのである。現在は治水工事が進み河道は落ち着いている。かつての48ケ瀬は当時の面影も消え区画整理の行き届いた穀倉地帯になっている。黒部川下流域には今でも霞堤の傍に小さな祠がある。竜神が祭ってある。激流に対する畏敬の念の現れであろう。

 今までの黒部川の氾濫は大正3年、昭和9年(7月12日)、昭和27年(7月1日)、昭和44年(8月)、平成7年(7月12日)におきている。昔から地域の人達は「一生のうち3回氾濫に遭う」といっているが本当に20年余りに一度の確立である。
 特に大きな出水は昭和44年8月の集中豪雨である。当時の災害記録によると8月8日から9日の朝にかけて、富山県東部山岳地帯に降った100〜150mmの大雨で8日朝7:30に愛本で警戒水量(700立方m/s)を越し1300立方m/sの流量に達した。しかし9時には、いったん警戒水量を下回った。

 この大雨で、全流域内は浸透水で飽和状態となっていたところへ、新潟県に北上していた前線の南下で、再び10日夜半から11日にかけて、山岳地帯に500mmを越す既住最大の豪雨があったため11日5時に愛本で警戒水量を越え、718立方m/sとなった。
 その後も増水は続き15:15に既住の記録(昭和27・7・1.推定869立方m/s)及び計画高水流量4,200立方m/Sを上回る5,661立方m/sの大出水となった。
 更に山間地の崩壊が続出し、砂防ダムに多大な被害を与えた。また下流河川はこの出水で堤防破壊、溢水及び護岸などの決壊、流出などが発生し、大災害を受けた。
 この大雨は7日朝から12日朝までの5日間に、黒部川上流域で降水量が1,000mmを超える記録的豪雨になり、黒部川は過去最高の出水と、流域の過去最高の被害が出た。


(左:昭和44年洪水時、上:現在温泉街)
 
 この結果、洪水時に水量を調整するダムが必要であることから翌年、温泉街から1km上流で宇奈月ダムの予備調査が始まり、昭和49年から実施計画調査が行われ、昭和54年4月よりダム建設工事に着手した。
 着工以来20年経て昨年10月に湛水をはじめた。本格的な試験湛水が始まったのは本年2月28日である。そして本日4月7日、あの昭和44年の水害の時の流量に匹敵するダムの満水値(標高260mの地点)まで達した記念すべき日である。

(平成11年11月30日撮影:水位標高215m) (平成12年4月7日撮影:水位標高260m)

 これから水位を一旦下げて則面の調査などを行い、本年10月に竣工する運びとなっている。現在のバックウォーターは黒薙川との合流地点まで来ている。40日余りで大きな人造湖が出来た。トロッコ電車も湖に沿って走って行く。今までとは違った景観に出会える。湖面は静に波立ち今だ雪の多い山々を新鮮に映し出している。特にヨーロッパの古城をイメージして造られた新柳河原発電が湖面に映し出され自然に溶け込んでいる。

古城をイメージした新柳河原発電所

 ダム周辺には親水ゾーンや学習ゾーン(展示室)が設けられ地域の人達に開かれたダムとなり、観光客が自然を満喫できる憩いの場となる。散策道の完全整備は来春になる予定である。洪水から人々の生命や財産を守るため建設されたダムであるが黒部川のイメージが余りにも変貌した。これらの行為は自然の中で許される許容範囲であって欲しいと願うばかりである。


上:温泉街側、建物はダム管理棟
左:ダム湖上流
                              
宇奈月ナチュラリスト研究会会員  
宇奈月遭難対策協議会救助隊員 
延楽 専務取締役 濱田政利 

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